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2016/03/31SEIKOクォーツ時計の歴史

セイコー 歴史

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SEIKOクォーツ時計の歴史

時計業界の軌跡は「クオーツショック」無しには語れません。SEIKO社の世界初のクオーツ式時計はどのようにして生まれたのでしょうか。時計といえばスイスが誇る機械式時計が主流で、当時の日本の技術とは大きな差がありました。そんな中、クオーツに生きる道を委ねたSEIKO社の涙ぐましい努力がありました。

かつてプロジェクトXでも特集されたほど注目を集めるクオーツ時計とセイコーの歴史を見ていきましょう。

  • 長野県諏訪市と時計工場

    長野県諏訪市と時計工場
    長野県諏訪市で時計産業が始まったのは、山崎屋時計店を営んでいた山崎久夫が誘致したことがきっかけです。
    戦前は生糸の生産で栄えていた長野県諏訪市ですが、化学繊維の登場と戦争により需要が激減し衰退の一途をたどっていました。
    なんとか製糸業に変わる新しい工業が必要だと町中で声が上がっていましたが、東京や大阪といった大都市からも遠く、また海もない諏訪で製鉄や造船といった当時の重工業産業を誘致するのは現実的ではありませんでした
    そんな中、時計の組み立てを地域産業にできないかと声を上げたのが山崎久夫でした。
    山崎久夫は現在のセイコーである服部時計店に奉公していた経験があり、その関係で腕時計「ネイション」の組み立てをやらないかと声をかけられていました。
    戦争が激化したことで本業である山崎屋時計店が厳しかったこともあり、彼はその話を引き受け、わずかな従業員と近所に住む女性とともに生産を開始します。

    時計の組み立てを広げて地域産業にできないか、そう考えた山崎久夫は当時の諏訪市長であった宮坂伊兵衛と服部時計店の製造部門であった第二精工舎の協力を得て1942年に味噌蔵を改造した大和工業を設立します。
    この工場では、製糸業の衰退で職を失った女性も働いていました。養蚕や生糸の生産で培った手先の器用さで、時計の部品の製造を行います。
    その2年後、1944年になると戦局はますます激しくなり第二精工舎は部分疎開を計画、大和工業設立の経緯もあり、諏訪市長とともに熱心に誘致をした諏訪にも第二精工舎の部分疎開が実現しました。
    しかし疎開ですので、戦争が終われば東京に戻ってしまう。そう考えた山崎久夫と大和工業は実績を作ることに奔走します。
    他の疎開した工場より先に時計製造をはじめ、1946年に女性用5型腕時計を完成させます。この時計が諏訪で作られた初めての時計でした。
    その後需要の兼ね合いもあり男性用10型の製造に切り替え、精工舎の関連工場の中でいち早く完成させます。また、疎開した第二精工舎の工員への食糧や住居の確保を行ったり、通産省に掛け合って専用線を引き電力を確保したりとさまざまな取り組みを行いました。その努力の甲斐があり、第二精工舎諏訪工場は諏訪から撤退することなく大和工業との協力体制を続けることになり、のちには諏訪精工舎と呼ばれるようになります。

    このような経緯で、長野県諏訪市は東洋のスイスと呼ばれるほどの時計産業の町になっていったのです。
  • クォーツ腕時計への挑戦

    クォーツ腕時計への挑戦
    当時、腕時計は機械式のものしかない時代でした。大きなクオーツ時計自体は存在していましたが、実用化できるサイズではありません。
    戦後、時計の正確さが重視される時代を迎え、精度が要求されるようになりました。機械式時計の精度は高くはなっていたもののスイスには及ばず、また求められる精密さも機械式時計では限界がありました。

    精工舎を含め、世界各国の時計会社でクオーツ時計の小型化の研究が進められていました。それは諏訪精工舎も例外ではありません。
    放送局向けにタンスほどもある大きさのクオーツ時計を提供していた精工舎は、東京オリンピックに合わせて壁掛け時計と変わらないサイズまでクオーツ時計を小型化することに成功します。実用的な技術水準に持ってくることができたこともあり、その後クォーツ時計は高価ではありましたが、少しずつ市販製品として販売されるようになりました。

    しかしまだ腕時計の開発には至っていませんでした。
    何より、クオーツの腕時計は現実的ではないという考えが強く、電子腕時計の計画に上がっていた候補の中で一番難しいとされていました。

    諏訪精工舎の工員は、ほとんどが養蚕や生糸の生産を行っていた人々でした。そのため、手先は器用ですが工学の知識はありません。
    クオーツ時計を作るためには、電子工学を学んだ工員が必要不可欠でした。そのため、東京大学をはじめとする首都圏の大学に採用活動を行いましたが、なかなか相手にされません。
    そんな中、山崎久夫の熱意に打たれた当時の静岡大学工学部教授の岡部隆博が生徒に直接交渉する許可を出したことで、静岡大学から電子工学を学んだ技術者を招くことに成功します。
    そしてとうとう、クオーツ腕時計の課題を乗り越え、1969年に世界初のクオーツ腕時計であるセイコークオーツアストロン 35Qが開発されます。
  • クオーツ腕時計の現在

    クオーツ腕時計の現在
    クオーツ腕時計の開発は世界中を驚かせました。
    精度は高いものの、サイズが大きく持ち運びはできないという問題を抱えていたクオーツ時計を腕時計にしてしまったのですから、これほど画期的なことはありません。

    その後小型化や電池の持ちをよくするなどの改良が進められ、今では各社から機械式時計と組み合わせて電池を使わずとも使えるものやソーラー機能を半永久的に動くことができるものが出ています。
    このように、様々な困難と必死の開発で生まれたクオーツ腕時計は、今でも多くの人に愛用されています。

この記事を監修した担当者

  • 吉本訓典,AACD協会基準判定士、リユース営業士,エコスタイル鑑定士

広尾店、銀座本店の鑑定士を経て店舗サポート課に配属され複数店で鑑定士を経験。
エコスタイルのコンテンツのコラムや買取実績などを担当。鑑定士で培ったブランド知識やメンテナンスの知識を活かしコンテンツを制作している。
    吉本訓典,AACD協会基準判定士、リユース営業士,エコスタイル鑑定士

広尾店、銀座本店の鑑定士を経て店舗サポート課に配属され複数店で鑑定士を経験。
エコスタイルのコンテンツのコラムや買取実績などを担当。鑑定士で培ったブランド知識やメンテナンスの知識を活かしコンテンツを制作している。
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    吉本訓典
    AACD協会基準判定士、リユース営業士
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    広尾店、銀座本店の鑑定士を経て店舗サポート課に配属され複数店で鑑定士を経験。
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